法輪寺について

法輪寺縁起

  当山は、人皇第四十七代淳仁天皇天平宝字四年(760年)、今を去ること一千二百有余年前、光仁天皇の皇子「開成皇子」の御草創と伝えられ、詳しくは「光明山遍照院法輪寺」と号す。

  其後、人皇第五十三代淳和天皇の御宇、天長五年(828年)高祖弘法大師(空海上人)が京都九条に庶民のための学校(綜藝種智院)を設け、普く道俗の薫育に努められるかたわら、当地に御巡錫、山深く清気道満ち山鶯の声こだまする当地に御巡錫をたまいて一七日間、鎮護国家・済生利人のため、我が像を刻みてこの地に祀るべし。若し我を毎日供養せる者は日に千人の衆を養い、専心礼拝せば官冨の望みを与えるであろう。」と申されてかき消す如く消え去り給う。弘法大使は一切衆生摂化には、心の救済と同時に物財の恩恵に浴することの必要性をいたく感ぜられ、眼前に拝し奉る大黒天神を一刀三礼のもとに刻まれ当山に安置、重ねて三七日(二十一日間)御祈願をこらし、自ら「出世大黒天」と命名し給いて専心帰依し奉る。その後箕面・弥勒寺第四世座主であった証如上人が紫雲たなびく当山において斉衡三年(856年)法輪寺を再興し、自ら阿弥陀如来を刻みて、ここに阿弥陀信仰の根本道場とし、多くの善男善女を導いたとの記録あり。

  以後、皇子皇族の止錫を給うことあり。堀河天皇の御宇、木食上人止住し、勅願により白川上皇の眼病平癒を祈願し奉るにその霊験たちどころに顕れ、法皇の庇護をこうむりて、偶々堂宇紹隆の事等ありしも旧記詳ならざるを以て今解説するに及ばず。然るに爾後、諸聖・大徳法脈を継ぎ諸善知法輪を転じ来るも千歳星移り物換りて、或いは一盛一衰あり。時に栄枯浮沈あり。ついに宝暦年間(1751年~1763年)火災に遭い、僅かに鐘楼堂を残すのみにして古来の什物珍宝旧記古伝等殆ど鳥有に帰す。享和元年(1801年)八月、湛龍上人寺門の再建に尽くし、文化四年(1807年)霜月、明覚上人本堂を建立す。現今の本堂それなり。

  文化八年(1811年)、中興五世戒城上人の代、京都嵯峨御所より菊花御紋丸提灯二張を下賜、天保十四年(1843年)五月、菊御紋附紫幕一張下賜され寺宝として現存す。

法輪寺ご本尊(阿弥陀如来)

  当山の本尊さまは、阿弥陀如来という仏さまです。「あみだ」というのは、インドの言葉をそのままうつしたもので「無量」という意味です。この「あみだ」さまについて説いているお経によると、仏さまの光明が無量で十方の国をあまねく照らすのでアミダといい、また、仏さまの寿命も無量で尽きることがないのでアミダというとあります。ですから「あみだ」さまは、仏さまの智恵(光)も慈悲(寿)も限りなく私たちにそそいで、私たちを見守ってくださっている仏さまです。その「あみだ」さまのお姿にも種種あります。特に当山のご本尊の「あみだ」さまは、頭に宝冠を戴いた真言密教独特の坐像の上品の阿弥陀如来さまです。

法輪寺出世大黒天略縁起

  天長五年(828年)に弘法大師(空海)さまが、京都に庶民のための学校(綜藝種智院)をお建てになった頃、この地をたずねられ、人間の幸福の条件は物心両面の豊かさが相応してこそはじめて、本当の幸せを得るものであるとの気持ちから福の神である大黒天を自ら刻まれて「出世大黒天」と命名、この法輪寺にお祀りしたものであります。法輪寺の出世大黒天は秘仏とし、60年に一度ご開帳されます。(近年では1984年)